幸國寺について
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幸國寺とは
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幸國寺縁起
(えんぎ) 百年以上続いた戦乱の世の中が終結したのは、慶長二十年(一六一五)。それからわずか一五年後の寛永七年(一六三〇)に当寺は創建されました。人心が疲弊した時代が終焉を迎え、人々の平和への願いが、「幸せに暮らすことができる国の寺」という名に込められています。
当寺を開いたのは、加藤清正公です。清正公は戦国武将随一の国づくりの才を持ち、土木の才に長け、人々の生活の向上に尽力しました。清正公は、日蓮大聖人の「立正安国(正しい教えを信じ、平和・平安を実現する)」の志の体現者だったのです。
当寺は清正公没後に、子の忠弘が下屋敷の敷地を寄進し、小湊誕生寺より除厄布引祖師をお遷しして開山されました。人々の暮らしの向上に力を注いだ清正公の願いが、幸せに暮らすことができる国を目指す寺「幸國寺」の創建へとつながったのです。
除厄布引祖師
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除厄布引祖師の縁起
(やくよけぬのびきそし) -
当寺のご本尊は日蓮大聖人が人々に授けた御尊像です。文永元年(一二六四)、大聖人が小湊(千葉県鴨川市)におられた際に、疫病が大流行しました。そこで大聖人は白い布にお題目「南無妙法蓮華経」を書き、ご祈祷をしたところ、たちどころに疫病はおさまりました。七年後の文永七年(一二七一)、再び小湊の地で疫病が流行します。
しかし、この時、大聖人は遠く鎌倉にいました。大聖人は文永元年と同様に、白い布にお題目を書き弟子に託して、小湊の地でこの白布を船から引き流しご祈祷をしたところ、疫病は再びおさまり、その後このことを忘れないために、白布を携えた木像が作られ、小湊の誕生寺におまつりしたといいます。
寛永七年(一六三〇)、当寺開山にあたり、この木像が奉安されました。江戸の町では、多くの疫病が数十年ごとに蔓延しました。その度に人々は、当寺の御祖像にすがり、いつしか木像は「除厄布引祖師」と呼ばれるようになり、「江戸十祖師(江戸の十の有名な日蓮大聖人)」のお一人として、今日でも多くの人々に篤く信仰されています。
幸國寺大銀杏
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幸國寺大銀杏記録の
碑から -
幸國寺大銀杏は東西にあり、共に樹齢五百年の新宿区内最大の銀杏(イチョウ)の木です。
この地が加藤清正公の下屋敷の一つだったことから「清正公お手植えの大銀杏」と言い伝えられ新宿区天然記念物に指定されております。
西側の大銀杏は太平洋戦争の戦災に遭いながらも、北側からの炎に立ち塞がり南側の家屋への類焼を防ぎました。その為に傷みが激しく、大風や着雪により大きな枝がたびたび折れ、辛うじて樹形を維持していました。
平成十年には、突然緑の葉を落としはじめ異常な事態になりました。取り急ぎ専門家に、応急処置をお願いいたしましたが、体力の無い樹木のため徹底的な治療が必要と診断されました。幸い五百年の時間を失う前に、大銀杏とご縁の深い方々が「大銀杏延命施術浄財勧募」を展開し、多くの理解者、協力者と優れた技術に恵まれ危険な状態は回避することができました。
荒んだ時代になってしまった今日、ここに御志納いただいた方々のお名前を記録し、この方々の「やさしさ」が源となって「平和で人と自然が調和のとれた世界」になることを祈念いたします。